差別する人は、人を見る目がある
自分は、オーディオのことが、まったくわかってないことに、先程、気がついた。一切についてそうだけども、オーディオについては特に、極めて粗い、解像力しか持っていない。若い頃は、自分に対する疑いが、もっとあって、あらゆることについて、選び方の本を読んでいた。しかし、オーディオについては、まったくそれをしていない。再生機器に対するこだわりも、無知の自覚もなかったということだ。
私は、何かを洞察する力を持っている、と思っているが、それにしても、対象はかなり限定されている。
対象についての理解力は、文章に如実に表れるように思う。感じ取れないものは、文章に起こしようがないからである。感性が鈍い人は、良いものを知らないまま、死ぬのである。そして、それを悲しむこともないのである。私も、良いものが良いとわからずに、多くのものを見損ない続けるのだろう。けだし、妬むことができるというのも、一つの才能なのかも知れない。本当に、わからないことは、それさえできないからである。
本稿の題は、『差別する人は、人を見る目がある』とした。やたら、平等を主張する人は、実は、違いに鈍感なのかも知れない。人を見る目がなければ、自分も見れないだろう。なんでも、やればできると思ってしまうんじゃないだろうか。
大抵、大雑把な見方をしている。誠意がない。見下した感情がある。

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